世界遺産 熊野古道-2 (和歌山県)   熊野古道、瀞峡-2

伏拝王子(ふしおがみおうじ)の少し手前に果無山脈(はてなしさんみゃく)の山々が見渡せる里があります。柿の大木に柿がたわわに実っています。

果無山脈(はてなしさんみゃく)の山並です。中央は三里富士(▲783m)です。

・演歌「柿の木坂の家」そのままの風情ある風景です。熊野の詣道はこの様な古い生活道が含まれています。 ・小さなお堂かな?と思えば、そうでなくミツバチの巣がけでした。

熊野大社のあった大斎原(おおゆのはら)(水害の為明治22年に本宮に移設)を望むここ伏拝王子の片隅に「和泉式部の供養塔」と歌碑が建っています。
 「晴れやらぬ身に浮き雲のたなびきて 月のさわりとなるぞ悲しき」かって熊野詣に来た和泉式部は丁度「月のもの」が始まり、参拝できない悲しみを詠んだ歌碑です。
 平安後期から鎌倉時代にかけて、上皇や貴族をはじめ庶
民にいたるまで多くの人々が熊野詣を行ったと言われています。熊野をめざす人であふ
れかえったことから、「蟻の熊野詣」と呼ばれたそうです。
 詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、平安時代末期
(1090年)の白河上皇の熊野行幸からで、白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行ったと言われています。その後、後白河上皇にいたっては33回の熊野行幸を行ったと言われています。
 当時の京都からの道程は、まず京の都の南鳥羽から船で淀川を下り、大阪天満橋の近くに上陸し、陸路を南下し、紀州の田辺から東へ山間部を通って、本宮に出る、この中辺路(なかへち)が古代の詣道した。かなりの辛苦を余議なくされた「熊野詣」であった事が想像出来ます。


・「昔から紀伊半島南部では何世紀にも渡って、豊かな天然の森で炭を焼き、また建築木材を伐採し、森全体は丸裸にしてしまった。その跡地に一斉に植えられたのが、現在のスギやヒノキの針葉樹の山林です」と森の蘇生の歴史についてガイドから説明がありました。 ・三軒茶屋跡には九鬼ケ口関所があります。約500年前には高野山詣のため通過する時、関銭を払い通過許可を得ていたと言われています。
                                        熊野古道、瀞峡-2
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